藩政改革に努めた津和野藩主 亀井 茲監(津和野町ゆかり)

亀井 茲監
学問を発展させ財政再建

 亀(かめ)井(い)茲(これ)監(み)は1825(文(ぶん)政(せい)8)年、江戸(えど)の三(み)田(た)(現在(げんざい)の東京都港区)で生まれました。島根県津和野(つわの)町周辺を治めていた津和野藩(はん)4万3千石(ごく)の亀井家11代藩主を務(つと)め、学問に力を入れて藩校の教育改(かい)革(かく)や人材育成を行いました。同藩出身の文(ぶん)豪(ごう)森鴎外(もりおうがい)や哲(てつ)学(がく)者西(にし)周(あまね)など、世界的に優(すぐ)れた思想家を生むきっかけをつくった、津和野藩最後の藩主です。

 茲監は勉強熱心で頭が良く、特に数学が得(とく)意(い)でした。幼(おさな)い頃(ころ)から弓道や馬(ば)術(じゅつ)などの武(ぶ)術(じゅつ)の修業(しゅぎょう)を積み、文(ぶん)武(ぶ)両道に励(はげ)みました。

 1839(天(てん)保(ぽう)9)年4月に14歳(さい)で津和野藩主亀井茲(これ)方(かた)の養子となり、6月に藩主になりました。当時は大(だい)飢(き)饉(きん)で、津和野藩は大(だい)規(き)模(ぼ)な洪(こう)水(ずい)や農作物の不作が起きていました。

 茲監はこの困(こん)難(なん)を解決(かいけつ)しようと、藩の財(ざい)政(せい)立て直しに着手。住民の声を積極的に聞き、藩(はん)士(し)の減(げん)俸(ぽう)や、江戸にあった屋(や)敷(しき)の売(ばい)却(きゃく)、特産物である和紙やろうの増(ぞう)産(さん)を行い、藩外からの収入(しゅうにゅう)獲(かく)得(とく)に努めました。

亀井茲監が1855(安政2)年に再建し、現在は武道教場などが残る藩校養老館=島根県津和野町後田
 学問にも力を入れ、藩校養(よう)老(ろう)館(かん)の改革にも取り組みました。新たに国学、儒(じゅ)学(がく)を取り入れ、国学者の岡(おか)熊(くま)臣(おみ)に学校規(き)則(そく)を作るよう指(し)示(じ)しました。また人材育成のため、養老館に優(ゆう)秀(しゅう)な人材を招(まね)くとともに、有望な人材を勉強のため江戸や大(おお)坂(さか)へ派(は)遣(けん)しました。

 ペリー率(ひき)いる黒船の来航(らいこう)で外国からの開国を迫(せま)られた1853(嘉永(かえい)6)年、藩校改革案を作った西周や藩士26人を、現(げん)状(じょう)調(ちょう)査(さ)や沿(えん)岸(がん)警(けい)備(び)のため江戸に派遣しました。

 津和野が舞(ぶ)台(たい)となった1866(慶(けい)応(おう)2)年の長(ちょう)州(しゅう)(現在の山口県)と幕(ばく)府(ふ)の争いでは、部下の福羽(ふくば)美静(よしず)とともに幕府と長州藩の間にたって交(こう)渉(しょう)を行い、幕府の軍(いくさ)目(め)付(つけ)を長州に引き渡(わた)すとともに、長州軍に対しては城下を通らないよう約束を取り付け、津和野の町を戦火から救(すく)いました。

 明治になり茲監は新政府の役職に任命(にんめい)され、宗教関係の行政を主に任(まか)されることになります。天(てん)皇(のう)の即(そく)位(い)礼(れい)をこれまでの中国式から日本式に改め、天皇の装(しょう)束(ぞく)は古典に基(もと)づき、和風の黄(こう)櫨(ろ)染(ぜんの)御(ご)袍(ほう)を用いました。天皇の教育係などを務めていた福羽美静とともに取り組みました。

 1869(明治2)年の版(はん)籍(せき)奉(ほう)還(かん)後、茲監は藩知事として政(せい)治(じ)にあたりましたが、その後廃(はい)藩(はん)を進め、72(同5)年に津和野藩は浜(はま)田(だ)県に編(へん)入(にゅう)されました。76(同9)年には家(か)督(とく)を茲(これ)明(あき)に譲(ゆず)り、85(同18)年に療(りょう)養(よう)のために行った熱(あた)海(み)の別(べっ)邸(てい)で61歳で亡(な)くなりました。

2020年11月18日 無断転載禁止

こども新聞