もう一つの教訓

 梅雨明けとともに戦後75年の節目となる夏が巡ってきた。8月6日の広島、9日の長崎への原爆投下と、15日の「玉音放送」。歴史的な出来事を、当時の新聞はどう伝え、国民はいつ知らされたのか。恥ずかしながら詳細を知ったのは十数年前だ▼広島への投下は、当日夕のラジオでは「焼夷弾」。8日付の新聞にやっと「新型爆弾」で「詳細目下調査中」の発表記事が載った。当時の米大統領トルーマンが投下16時間後に「原子爆弾」と表明したが、それが中立国ポルトガル発の通信社電で、改題前の本紙に載ったのは終戦後の17日。詳細や広島市街の写真が掲載されたのは21日だった▼ただ誰も気付かなかったわけではない。作家の大仏(おさらぎ)次郎は、後に出版された日記の7日の記述で、親しい記者からの情報を基に原爆を疑っていた。技術畑の官僚だった東海大の創立者・松前重義も原爆と直感。現地調査の結果、10日には原爆と結論付けている▼しかし広島を視察した軍の参謀は、12日の新聞でも「速やかに全日本人が地下移転さえすれば絶対大丈夫だ」と強がっていた。ちなみに、終戦の詔勅を掲載する新聞は、全国的に放送後の当日午後の配達になった▼民主主義とメディアが発達した今では、信じられない報道統制と伝わり方だろう。都合の悪いことは隠したがるし、苦境になるほど強がりを言う為政者心理も、風化させてはいけない教訓だ。(己)

2020年8月1日 無断転載禁止