私財投じ新開地区開拓 岡本甚左衛門(浜田市ゆかり)

岡本 甚左衛門
盆踊りや記念式でたたえる

 江(え)戸(ど)時代中期の1819(文政(ぶんせい)2)年、現(げん)在(ざい)の浜(はま)田(だ)市金(かな)城(ぎ)町七(しち)条(じょう)の新(しん)開(かい)地区を開(かい)拓(たく)しようと、岡(おか)本(もと)甚(じん)左(ざ)衛(え)門(もん)(1774~1842年)は自らの資(し)産(さん)を投じました。開拓から200年が経(た)ったいま、浜田市内の小学生が授(じゅ)業(ぎょう)の題材で学ぶなど郷(きょう)土(ど)の偉(い)人(じん)として親しまれています。地元の金城町では、盆(ぼん)踊(おど)り歌として語り継(つ)ぎ、開拓から50年ごとに記念式を開くなど功(こう)績(せき)をたたえています。

 三(さん)宮(くう)神社(同市相(あい)生(おい)町)神(しん)職(しょく)の親(しん)戚(せき)にあたり、庄(しょう)屋(や)を務(つと)めていた家に生まれました。当時は付近に田畑が少なく、農家の跡(あと)を継げない男子は生活に困(こま)っていました。浜田藩(はん)は年(ねん)貢(ぐ)増(ぞう)加(か)が見(み)込(こ)めるため、岡本が願い出た開拓を認(みと)めましたが、財(ざい)政(せい)難(なん)で費(ひ)用(よう)を出すのは断(ことわ)りました。そこで、岡本はたたら製(せい)鉄(てつ)で稼(かせ)いだ巨(きょ)額(がく)の私(し)財(ざい)を投じて開拓に乗り出したのです。

 開拓場所は、七(しち)条(じょう)原(ばら)と呼(よ)ばれる海(かい)抜(ばつ)230メートルの高台で、周(しゅう)囲(い)は草木に覆(おお)われ人が住まないところでした。農地として開(かい)墾(こん)するだけでなく、井(い)戸(ど)を掘(ほ)っても水が出てこないため水が必要でした。農地をつくる前、堤(つつみ)と呼ばれる貯(ちょ)水(すい)池を設(もう)けたり、水路を造ったりし、人が生活できるようにしました。

 1827(文政10)年には、開拓地は新(しん)開(かい)所(じょ)と名付けられ、178人が暮(く)らす村になりました。堤や農地を造る工事は資金不足で何度も中(ちゅう)断(だん)しましたが、72年に完(かん)了(りょう)しました。岡本は工事途(と)中(ちゅう)の42年に亡(な)くなりましたが、熱意は子(し)孫(そん)2代に引き継がれました。

地元住民が寄贈した岡本甚左衛門の土像=浜田市金城町下来原、市金城支所
 現在、開墾された農地24ヘクタールと堤4カ所が残っています。一部の堤が農業用貯水池として使われるほか、荒(あれ)地(ち)を開いた偉(い)業(ぎょう)は、新開地区の盆踊り歌として語り継がれ、小学生がふるさと教育としてゆかりの地を見学しています。浜田市金城支(し)所(しょ)には、地元住民が手作りし寄(き)贈(ぞう)した高さ1メートルの土(ど)像(ぞう)が置かれています。

 顕(けん)彰(しょう)活動に取り組む雲(くも)城(ぎ)公民館(同市金城町下(しも)来(くる)原(ばら))の岡(おか)本(もと)修(しゅう)治(じ)館長(81)は「地(ち)域(いき)住民のために力を尽(つ)くし続けた功績を敬(うやま)い、郷土の偉人としていつまでも語り継いでいきたい」と話しています。



2020年5月20日 無断転載禁止

こども新聞