世事抄録 シルブプレ

 「夢の翻訳機」とうたった音声翻訳機のCMをよく目にするようになった。手のひらサイズの本体に話すと、ネーティブな発音で相互に翻訳。かなりの精度で70言語以上に対応しているという。30年前のあの時にあったらと今さらながら思った。 

 その年の晩秋、英語さえろくに話せないのに仕事で女性2人をエスコートして初めてのパリを1週間、案内して回った。ノートルダム寺院、ルーブル美術館、シャンゼリゼ通り…と主だった観光地を巡ったが、最大の問題は言葉の壁だった。「ボンジュール」と「シルブプレ(お願いします)」に地名を連発しながら四苦八苦で過ごした。

 不思議なもので、日がたつにつれてそれなりになじんできた。ある日、パリ郊外のベルサイユ宮殿まで電車に乗って出掛けた。ルイ王朝が残した栄華の数々に圧倒されながら帰途に就いたが、時間が押していたため最寄り駅でタクシーに乗ろうとした。パリ市内の駅名を告げると、初老の運転手は窓越しに猛烈な勢いのフランス語でまくしたてた。

 女性たちに何を言っているのか尋ねられて、「おっちゃんは、夕方のラッシュアワーでタクシーより電車が早い。悪いことは言わないから電車にしなさいって言っている」と答えた。あながち間違っていなかったと思う。それにしてもあの時に翻訳機があったならパリの景色も随分変わって見えたに違いない。

 (出雲市・呑舟)

2019年6月6日 無断転載禁止