「世間という学校」と道徳教育/「因果応報」も選択肢

ふるさと島根定住財団顧問  藤原 義光

 「思いは見えないけれど、思いやりは誰にでも見える。心は誰にも見えないけれど、心づかいは見える」(宮沢章二「行為の意」)

 これは、東北大震災直後にテレビで繰り返し流された言葉だ。

 豪雨や大地震で甚大な被害が出た災害現場には、たくさんのボランティアが手弁当で駆け付け復旧活動に汗を流す。日本人のモラルは落ちたと言われるが、こうしたボランティア活動を見るにつけても「日本人も捨てたものでない」と誇らしく感傷的になる。

 他人を慮(おもんばか)る心(思いやり、心づかい)は、もともと「家庭」や「世間という学校」が教えて来たが、今はその力が弱くなった。

 「世間という学校」は、古いしがらみやしきたり、義理人情と密接に絡み合っている面があり、なかなか「良いところは残す、悪い点は改める」とはいかない。しかし弱い者や弱い地域を慮ることのない「ジコチュウ」が蔓延(まんえん)するよりは、古いしがらみによる悪弊を多少我慢する方が、まだまし(ベター)だと思うようになった。

 近江商人の戒めには「買い手良し、売り手良し、世間良し」の「三方良し」があったという。「商売は世のため、他人のための奉仕にして、利益はそれらへの報酬」との考えで、経済学的にいえば「適正利潤」となる。

 この対極にあるのが、もうけるためには手段を選ばずの「今だけ、金だけ、自分だけ」で、日本のものづくりへのモラルが揺らいできたのも、政治、経済や社会活動全般のモラルハザード(倫理欠落)も、その表れだ。 

 少し前には、賞味期限切れ食品の使い回しや、原材料の虚偽表示が社会問題となった。最近では、自動車の性能数値の書き換えや耐震装置のずさんな検査が、日本の技術水準の誇りである信頼性を大きく損なった。政治の世界でも高い志や高潔さは陰が薄くなっている。

 本来は、自分が育ててもらったふるさとや災害地域への支援のための制度であるべきはずの「ふるさと納税」の趣旨を逸脱した一部市町の返礼品や金券目当ての多額な送金(納税)では人間の浅ましさが露骨になった。

 「今だけ、金だけ、自分だけ」のジコチュウと手弁当での災害復旧や子どもの登下校の立ち番、地域の清掃などの様々なボランティア活動は対極にあるといえよう。

 「世間という学校」が健全に機能していたころは、「お天道様が見ている」とか「因果応報」が教えるともなく教えられ、その倫理観が血肉となった。「因果応報」は「良い行いには良い結果があり、悪い行いには悪い報いがあること」で、辞書の説明を要約すると「前世、現世、来世の因果を説く仏教の基本的な教えであるが、勧善懲悪の役割を果たした」とある。

 学校では道徳教育が正規の教科となった。個人の自由や権利を尊重するあまり、ジコチュウな言動が横行するようになったので、公民としてのふるまいや義務の大切さを教えることだと理解するが、それならば、簡潔で印象に残る「因果応報」を教えたらどうだろう。「三方良し」もその一つだが、教えるための事例はいくらでもあるからドンドン取り上げたらいい。

 「良いことは良い、悪いことは悪い」を教えるのは「学校」だけではなく、「家庭」や「世間という学校」も重要だ。経験を積んだじいちゃんばあちゃん世代との交流や、PТA、公民館活動もそれにあたる。

 「お天道様が見ている」の「お天道様」は「世間」のことで「世間から見られている」という意味だ。多神教の国日本では神さま仏さま(お天道様)は全国の老若男女に目配りをして、「因果応報」を考えてくださる。

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 ふじはら・よしみつ 岡山大卒。1972年、島根県職員採用。財政課長、浜田総務事務所長、地域振興部長、教育長、ふるさと島根定住財団理事長などを歴任。現在、同財団顧問。

2019年4月21日 無断転載禁止