日本で初めて陸地綿の栽培に成功 松村 豊吉(松江市ゆかり)

綿収穫量の世界記録作る

 松村豊吉(まつむらとよきち)(1868~1959)は、日本では不(ふ)可(か)能(のう)とされていた品(ひん)質(しつ)のいい陸(りく)地(ち)綿(めん)(洋綿)の栽培(さいばい)を、松(まつ)江(え)市内で初めて成功させました。

 綿は大別して4種類あり、そのうち陸地綿は北アメリカなど世界で最も広く栽培。綿全体の生産高の6割(わり)以上を占(し)めるといわれています。

 現在の出(いず)雲(も)市美(み)談(だみ)町で生まれた豊吉は、16歳(さい)で小学校の教員になります。その後、東京の農科大学を卒業し、1896(明治29)年、28歳の時に北海道の招(まね)きで北海道農事試験場長となり、道内の稲作(いなさく)全(ぜん)般(ぱん)を担当(たんとう)しました。

 「少年よ大(たい)志(し)を抱(いだ)け」の有名な言葉を残したアメリカの教育家で札幌(さっぽろ)農学校に勤(つと)めたクラーク博士(はくし)が、稲作は安定的に収(しゅう)穫(かく)できないとした北海道で、寒さに強い「寒地(かんち)米作法(べいさくほう)」を確立。約300坪(つぼ)当たり米の収穫量をそれまでの150キログラムから3倍増(ぞう)にしました。わずか2年の勤(きん)務(む)でしたが、その業績(ぎょうせき)から「北海道の稲作の父」とたたえられています。

 1898(明治31)年、松江の母親から帰ってくるよう言われ、30歳で帰(き)松(しょう)。島根県農事試験場に勤めました。その後、朝(ちょう)鮮(せん)半島の公立農学校校長などを経(へ)て1926(大正15)年、58歳の時に再(ふたた)び、松江に帰ります。

 日本で普(ふ)及(きゅう)していた東洋品種の在(ざい)来(らい)綿(めん)の繊(せん)維(い)は太く短いもの。それに対して、陸地綿は繊維が細く長い良(りょう)質(しつ)で、豊(ほう)富(ふ)に収穫できました。

 しかし、日本の多雨(たう)、多湿(たしつ)な環(かん)境(きょう)では育たず、栽培は不可能といわれていました。

 豊吉は1927(昭和2)年春、松江の四(し)十間堀(じゅっけんぼり)と自宅(じたく)の間にある畑に陸地綿の種をまきます。秋には見事な綿を吹(ふ)き、定説を覆(くつがえ)しました。

 1933(昭和8)年には、近くの堂形(どうがた)町の畑で300坪当たり、アメリカ平均の約5倍にあたる約400キログラムを収穫。単位面積当たり綿収穫量の世界記録を作ります。

 豊吉は1959(昭和34)年、91歳で亡(な)くなりました。

 豊吉の功績(こうせき)を広めよう、と松江歴史館(松江市殿(との)町)は2014(平成26)年、「日本の近代化に貢献(こうけん)した出雲人」と題して、豊吉ら3人の業績(ぎょうせき)を紹介(しょうかい)する企画展(きかくてん)を開きました。

 また、豊吉が暮(く)らした城西(じょうさい)地区の住民有志(ゆうし)らが2014(平成26)年、豊吉の紙芝居(かみしばい)やDVDを制作(せいさく)。さらに翌(よく)年、城西公民館(松江市堂形(どうがた)町)が呼(よ)び掛(か)けて市内の6公民館などが雲(うん)南(なん)市大東(だいとう)町山王(さんのう)寺(じ)の棚田(たなだ)で陸地綿の共同栽培に挑(ちょう)戦(せん)。春に種をまき、秋には初めて収穫の喜びに浸(ひた)りました。栽培は、現在まで続けられています。

2019年4月17日 無断転載禁止

こども新聞