佐陀川を造り水害減らす 清原 太兵衛(松江市生まれ)

田んぼ増え水運も盛んに

佐陀川を造った清原太兵衛を顕彰する銅像=松江市鹿島町名分のさいのかみ公園
 江(え)戸(ど)時代、城下(じょうか)町(まち)松(まつ)江(え)でたびたび起こった水害を防(ふせ)ごうと、清原(きよはら)太(た)兵(へ)衛(え)(1711~87年)は宍(しん)道(じ)湖(こ)からあふれた水を日本海へ排水(はいすい)させる人工河川(運(うん)河(が))の佐(さ)陀(だ)川(がわ)を造りました。

 現在(げんざい)の同市法(ほっ)吉(き)町で農家に生まれた太兵衛。11歳(さい)になった1722(享保(きょうほう)7)年、水害によって周辺の田んぼが大きな被(ひ)害(がい)を受けて農民が苦しみ、「水害のない地(ち)域(いき)になってほしい」と強く思いました。

 25(同10)年、松江藩(はん)の武(ぶ)士(し)に雇(やと)われて仕事を手伝いながら16年の間、土木や治(ち)水(すい)などを幅(はば)広く学びます。人柄(ひとがら)と学力が評(ひょう)判(ばん)になり42(寛保(かんぽう)2)年、31歳で松江藩に登用(とうよう)されました。66歳の時に、現場監(かん)督(とく)的な役職(やくしょく)を命じられます。

清原太兵衛が造った佐陀川の河口付近=松江市鹿島町恵曇
 松江松平藩7代藩主の松平(まつだいら)治郷(はるさと)(号・不(ふ)昧(まい))時代の松江藩は度(たび)重なる水害によって、年(ねん)貢(ぐ)米(まい)が集まらなくなっていました。困(こま)り果てた藩は84(天明(てんめい)4)年、進(しん)言(げん)し続けていた太兵衛に佐陀川の開削(かいさく)を許(きょ)可(か)します。

 佐陀川は、松江市浜(はま)佐(さ)田(だ)町の宍道湖から同市鹿(か)島(しま)町恵(え)曇(とも)で日本海に注ぐ川幅約40メートル、長さ約8キロの運河です。

 土地を無償提供(むしょうていきょう)してもらい85(同5)年に着工。当時の出(いず)雲(も)地方10郡から延(の)べ約7万人を動員し難(なん)工事の末、2年半後の87(同7)年に完成しました。工事監督の太兵衛は、完成の直前に亡(な)くなってしまいます。

 佐陀川の完成によって城下町松江の水害を減(へ)らせただけでなく、沼(ぬま)地(ち)の水位が低下して約200ヘクタールの新しい田んぼが生まれ、周辺農民を助けることができました。

佐陀川を手作りいかだで下る周辺小学校の児童ら=8月、松江市鹿島町
 さらに、舟(ふね)で米や鉄、海産物などの物(ぶっ)資(し)を日本海経(けい)由(ゆ)で各藩に送ったり仕入れたりする水上交通(水運(すいうん))が盛(さか)んになって、藩の経済(けいざい)が潤(うるお)いました。水運は、江戸時代末から明治時代に全盛(ぜんせい)になります。佐陀川河(か)口(こう)の恵曇は、鹿島町の御(み)津(つ)とともに漁業集落として発展(はってん)。県東部の漁業中心地となりました。

 住民有(ゆう)志(し)らでつくる顕彰会(けんしょうかい)が2009(平成21)年、佐陀川沿(ぞ)いの公園に太兵衛の銅像(どうぞう)を建立(こんりゅう)。また、流域(りゅういき)の児童らが毎年夏に手作りいかだで佐陀川を下り、太兵衛の功績(こうせき)を肌(はだ)で感じるとともに、地元の川への愛着を深めています。

2018年12月26日 無断転載禁止

こども新聞